最近、おもうこと

50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。

定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。

大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。

もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、

2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。

里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。

そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。

2011-02-09

「広重の富士」謎の解明


赤坂治績著「広重の富士」を読了し、テーマである「広重は世に出てから晩年までの二十年間、なぜ富士シリーズを描けなかったのか」の謎が解き明かされました。

当時の版画は多額の資金が必要なため、製作資金の出資者兼出版プロデューサーである版元の意向に沿うものしか製作できないという現実があったのです。

原画の代金はべらぼうに安かったと言いますから、名所絵で売れていた広重が、たとえ富士シリーズを描こうと考えても無理なことだったのでしょう。


版画ができるまで

       版元が商品として浮世絵版画を企画
  ②     企画に相応しい絵師を選んで原画作成を依頼
  ③     彫師が版木を作成
  ④     摺師が版画を摺る

版元が富士シリーズを企画するには、富士登山ブームと幕府の施策という背景がありました。

     富士登山ブーム(富士講・山岳信仰)
     寛政十二年(1800年)幕府は庚申の年(6/1~8/30)に限って女性の富士登山を認める。
     天保初年(1830)に制作された葛飾北斎の「富嶽三十六景」の版木は20年以上経ち消耗している。
     安政五年(1858年)第2次富士登山ブーム。

版元である蔦屋吉蔵が広重に作画を依頼し、広重は「富士三十六景」を描く。
安政五年(1859年)9/6、61歳で没する。(コレラ?)
安政六年秋、広重の一周忌「富士三十六景」出版される。

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