最近、おもうこと
50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。
定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。
大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。
もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、
2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。
里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。
そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。
2017-08-24
2017-08-21
2017-08-16
ネパールの生理小屋
2005年にネパール政府によって慣習は正式に禁止されていましたが、罰則規定がないため現在も行われている地域があります。
私もクリシュナさんから生理小屋に関する最近のネパールの新聞記事を送ってもらいました。
「人が死んでもしょうがない、ルールを守るしかない」
と語る生理小屋で亡くなった娘の葬式をする両親
祈祷師が生理小屋の風習を守らせる役割を担っている
それに村人たちは反対できない
以前壊された場所にもう一度立て直された生理小屋
生理中に生理小屋に入っている女の子
2017-08-15
終戦記念日に思う
私が父方の祖母と暮らしたのは、小学校高学年の2年間でした。祖母は私が学校から帰ると戦争の話を度々してくれました。昭和天皇と同じ日に生まれたことがご自慢の祖母は、筋金入りの軍国の母でした。3人の息子を軍人に育てることが彼女の生きがいでした。次男の父と三男の叔父は海軍兵学校に進んだものの、長男の伯父だけが軍人を嫌い、大学で演劇を学んでいました。祖母は「好きなことをするなら、まず御国のために戦って来てからにしなさい!」と言い渡し、招集令状が届く前に「いの一番」で志願させたそうです。伯父はフィリピンで戦死しました。兵站も確保されない戦線で、戦死者の多くは餓死だったと言われています。
伯父が残したのは爪と一通の手紙でした。祖母が大切にしていた手紙には「泣くな 嘆くな 必ず帰る 桐の小箱に錦着て 会いに来てくれ九段坂」という歌が書かれていました。これは「陸・海軍礼式歌」であることを後になって知りました。歌の最後には、腰の曲がった祖母が杖をついて靖国神社にお参りする姿が描かれていました。死ぬ覚悟で出征した伯父の思いが込められた手紙を、祖母はどんな思いで孫の私に見せたのでしょうか。
一方、父は海軍で終戦を迎えました。3人乗りの潜水艇で敵の戦艦に体当たりする予定でしたが、故障で軍港に引き返した時に広島に原爆が落とされ、再び出航することはありませんでした。祖母は敗戦の報を聞いた時、父は戦死せずとも生きては帰っては来るまいと覚悟したそうです。
私は祖母に教えられた歌の中で「戦友」という軍歌が気に入り、「ここは御国を何百里」と、長い歌詞を覚え祖母と一緒に歌っていました。「ソ連が不可侵条約を破って攻めてこなかったら、この戦争で負けなかったら、お前は軍人の娘として何不自由のない暮らしが出来たのに!」と言うのか祖母の口癖でした。
伯父が残したのは爪と一通の手紙でした。祖母が大切にしていた手紙には「泣くな 嘆くな 必ず帰る 桐の小箱に錦着て 会いに来てくれ九段坂」という歌が書かれていました。これは「陸・海軍礼式歌」であることを後になって知りました。歌の最後には、腰の曲がった祖母が杖をついて靖国神社にお参りする姿が描かれていました。死ぬ覚悟で出征した伯父の思いが込められた手紙を、祖母はどんな思いで孫の私に見せたのでしょうか。
一方、父は海軍で終戦を迎えました。3人乗りの潜水艇で敵の戦艦に体当たりする予定でしたが、故障で軍港に引き返した時に広島に原爆が落とされ、再び出航することはありませんでした。祖母は敗戦の報を聞いた時、父は戦死せずとも生きては帰っては来るまいと覚悟したそうです。
私は祖母に教えられた歌の中で「戦友」という軍歌が気に入り、「ここは御国を何百里」と、長い歌詞を覚え祖母と一緒に歌っていました。「ソ連が不可侵条約を破って攻めてこなかったら、この戦争で負けなかったら、お前は軍人の娘として何不自由のない暮らしが出来たのに!」と言うのか祖母の口癖でした。
その頃の祖母と同じ年齢になった私は、「絶対に父や伯父のような青年を生んではいけない」「息子たちに、孫たちに同じ道を歩ませてはいけない」と強い想いで迎える8月15日です。今年も千葉市の「平和公園墓地」に眠る祖母と伯父と父のお墓参りに行ってきました。終戦を海軍兵学校で迎えた三男の叔父はまだ健在で、お墓を守っています。
2017-08-14
さをり体験教室
8月14日、毎年三男の命日には棚経をあげてもらうため、赤羽の「静勝寺」から朝一番でお坊さんが我が家に出向いてくれます。こちらは母の実家の菩提寺です。
三男・力郎の一周忌にお墓ができるまで、「静勝寺」の納骨堂に預かってもらっていました。今年で30年通ってくれているお坊さんは、「当時20代でしたが、58歳になりました」としみじみ話されていました。長男が結婚して嫁さんが加わり、ハイハイしていた初孫は小学校5年生になりました。下の孫も2年生、次男をまじえ6人が毎年早朝に我が家に集合する年中行事となっています。
棚経の後、今年も孫のさをり体験教室が始まりました。SAORI東京の体験教室にも行ったことのある二人は、これで4回目となるためだんだん手つきも堂に入ってきました。自分の好きな色がはっきりしていて、お姉ちゃんはオレンジや黄緑系でタペストリーを仕上げ、夏休みの自由研究にすると持ち帰りました。妹はブルー紫系を選んで作品を仕上げ、バッグにしてねと置いていきました。私に宿題が出来てしまいました。
2年生と5年生ですが年の差は関係なく、すぐ楽しめるのがさをりのさをりたる所以です。
2017-08-12
焼き場に立つ少年
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
原爆投下後の長崎で、亡くなった幼子を背負う「焼き場に立つ少年」。この写真を撮影した米国の従軍カメラマンをたどった著書が出版されました。
-------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
という朝日新聞ニュースを私はFacebookでシェアしました。
「焼き場に立つ少年」の掲載されているオダネルの写真集「トランクの中の日本」、私も購入しました。とのコメントをつけて。
「焼き場に立つ少年」の掲載されているオダネルの写真集「トランクの中の日本」、私も購入しました。とのコメントをつけて。
すると、ネパールのクリシュナ夫人のウルちゃんからコメントがつきました。彼女はFacebookでこまめに情報を発信しています。
彼女は日本語を勉強中で、ローマ字なら簡単な日本語がわかります。ネパールで滞在中、息子は彼女にネパール語を教えてもらい、彼女に日本語を教えていたそうです。
そしてコメントの後に、泣いているスタンプが付きました。私も猫と一緒に号泣している女の子のスタンプを付けました。
コメント
2017-08-05
2017-08-04
墓参ツアー①
嵐山 |
飯能 |
毎年、三男(武蔵嵐山)、母(飯能)、父(千城台)のお墓参りはまさに墓参ツアーとなります。
今回は初の試みで、三男の墓のある武蔵嵐山から小川町へ、八高線で高麗川へ出てタクシーで飯能まで行ってみました。タクシー代は4330円かかりましたが、時間は非常に短縮できました。
電車でも車でも2カ所回ると1日仕事だったのですが、今日は帰りに池袋のデパートを冷やかす余裕がありました。
三男の墓に植えたつつじが伸び放題で大きくなって、ご近所さんに迷惑をかけている風情でしたが、枯れた花びらがたくさん残っていて花の咲く頃はざぞかし綺麗だったことだろうと想像出来ました。今度少し刈ってやらなければなりません。
2017-08-02
豊田真由子議員の辞職を求める市民集会 8/2
衆議院埼玉4区「豊田真由子議員の辞職を求める市民集会」が東武東上線志木駅南口で開かれました。「市民が野党をつなぐ埼玉4区の会」が主催したこの集会には300人以上の人が集まり、翌朝にはTBS系ニュースで放映されたそうです。なんと私も横顔が写っていたとか。
私は、ネパールから帰国以来息子の咳が2週間以上も止まらないのが心配で、自分の主治医に彼を連れて行きレントゲンを撮ってもらい、その足で志木駅にバスで駆けつけました。
集会は和光市在住の法政大学教授中沢けいさんがトップを切ってお話され、新座、志木、朝霞、和光の各市の市民がリレートークで、「秘書へ暴言・暴行は議員として失格です!」「すみやかに議員を辞職してください!」と訴え、多くの道行く人々が足を止めて聞き入っていました。
登録:
投稿 (Atom)