最近、おもうこと

50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。

定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。

大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。

もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、

2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。

里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。

そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。

2012-04-30

心ときめきするもの 清川妙 著

元の職場の派遣職員さんからお見舞いをいただきました。
彼女から誘われていた4月15日の清川妙先生の講座をパスしたため、先生の新刊本を贈ってくださったのです。

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清川先生の講義ではいつも教えていただいていますが、
「今すぐできることをする!一度しかない人生だから、今(せつな)を大事に重ねて生きる」
という言葉が、いつにも増して胸に来ました。
最新の先生の本をお送りします。
まだ、動き回れず、たいくつ…でしたら、ぜひお読みになって下さい。
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池袋・西武百貨店のカルチャーセンターで開催されるため、ママ友を誘って私も2回ほど講座に参加しています。
前回の「兼好さんの遺言」のお話がとてもよかったので、ぜひ参加したいと思っていたのですが…残念です。

ギブスで動けない体で、日夜協同研のホームページ制作に没頭したのは、「今すぐできること」を実践したと言えるのかな。
むしろ日常生活だったらできなかった、動けなかったからこそ集中できたとも言えますね。

2012-04-28

「今を生きる私たちが宮澤賢治から学ぶもの」 講師・三上満さん


講演はロの字のテーブル席の外側にイスのみの席をつくる盛況ぶり
協同研の第22回定期総会の日です。
11時頃、事務所に着くと、代表と事務局長は議案書のホチキス止めの最中でした。
集約したアンケートの中間報告書を渡し、コピーをお願いしました。
ギブスで役に立たないものですから大先輩に作業はおまかせ。

12時頃、運営委員が続々と集合して、オニギリや菓子パンで軽食を済ませて、総会の最終打合せです。
会場設営は男性陣三人、受付と会費徴収係二人、お茶・菓子担当二人、私は書籍販売を分担しました。


総会と講演の間のフルート演奏
総会は議案すべてが拍手で承認され、会場から「定例会のいいだしっぺ会員の報告は貴重な情報である」という発言をいただき無事終了。

休憩後のアトラクション、フルート演奏の演目の最後は、宮澤賢治の童話「双子の星」から「星めぐりの歌」 (聴き入る三上満さん)

演奏者は、6月定例会「2012年介護保険改定で現場はどう変わる」の講師で、医療生協さいたまのケアマネジャーSさん。



記念講演の講師は宮澤賢治の研究で知られ、2003年に「明日への銀河鉄道」で岩手日報の「賢治賞」を受賞している三上満さん。

私が販売を担当したこのブックレットは5月3日発売の新刊で、ちょうどお披露目の講演会となりました。
同時にブックレットは本日の講演の内容とも言えます。
なぜなら、東日本大震災を経て、宮澤賢治の生き方に学ぼうと昨年10月、「浦和北九条の会」で同様の講演会が持たれ、それをもとにブックレットが出来上っているからです。

驚いたことに、あとがきにある世話人の名前の中に、協同研の代表、フルート奏者のSさん、1月定例会の講師だったKさん、福祉研究会で見学したグループハウスさくらの代表Oさんが名前を連ねているのです。
私はいつも、協同研の豊富な専門知識を持つ会員の存在に感心していますが、その方たちが地域に根ざし素晴らしい活動をされていることを知り、改めて感服しました。

2012-04-22

Peace Philosophy Centre

農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」を紹介したブログ(4/15)に英文のコメントが付きました。
迷惑メール以外にアルファベットのコメントは初めてなのでビックリです。
IT Company India とあり、応援メッセージでした。ありがとうございます。

この詩について検索してみたところ、しんごう先生はPeace Philosophy Centre のブログからこの詩を
入手したことが分かりました。

ピース・フィロソフィー・センター(カナダ・バンクーバー 2007年設立)は、平和で持続可能な世界を創るため
対話と学びの場を提供します。
という主旨がブログの冒頭に英語、日本語、中国語で書かれていました。
アクセス数はなんと157万アクセスを越えています。

この詩は全国の脱原発集会などで朗読されたそうですが、福島医大の後藤宣代教授が2011年11月に
UCバークレー校で行われた福島関連の会議で朗読され、心打たれた同校のアンドリュー・バーシェイ・
日本近現代史教授が英訳されたとありました。
3.11 一周年記念の日にアップされた「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」の英訳詩を紹介します。


Amid invisible terror, we were witnesses


Maeda Arata
(Translated into English by Andrew E. Barshay)





Assaulted by an invisible terror

Even now, after four months 

We remain driven from our hometown





At Level 7, with no change in the situation at all

Tens of thousands of livestock starved to death

In the deserted villages, only the stink from their corpses

Rises into the air





cross the mountains and rivers of our home country,

Stolen away by something that will not show itself,

The seasons change, as if nothing at all had happened





There, where the cuckoo calls, can it now be

Only in our dreams that we toil and sweat?

There, we cannot even set foot!





Once national policy drove us to Manchuria

There, in defeat, forced to commit suicide together

While others abandoned little ones to escape back home




Now as then, our lives,

Built through hard struggles

Are smashed to bits by the failure of national policy





And this time, it’s a painless, slow death

Yet just as on that day, isn’t this forced collective suicide,

the live experiments of Unit 731 all over again?





Friends, we can’t just stand here grieving and crying

Over these four months, amid invisible terror

What we have seen with our own eyes

Is the true face of terror that says:

For profit’s sake, the reactors must stay on




All right then! If that’s how it is

We’re ready to take them on, for the sake of our posterity




Just like the Kwantung Army before them, these bastards

hid the facts and were the first to run from danger

And now they put on an innocent face and prattle about

safety and reconstruction

No way will we let them take these lives so easily!




Oh, but friends, my friends who are dead



2012-04-15

農民詩 「みえない恐怖のなかでぼくらは見た」

2011年7月18日付 農民連の「しんぶん農民」に掲載された詩人・前田新さんの詩を紹介します

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見えない恐怖のなかでぼくらは見た 
前田新 (会津美里町在住)

見えない恐怖に脅かされて
4か月も過ぎたいまも
ぼくらは、ふるさとの町を追われたままだ
レベル7、その事態は何も変わっていない
何万という家畜たちが餓死していった
人気のいない村に、その死臭だけが
たちのぼっている

姿を見せないものに
奪われてしまったふるさとの山河を
何ごともなかったように季節が移ってゆく
郭公が鳴くそこで、汗を流して働くのは
もう、夢のなかでしかないのか
ぼくらは、そこに立ち入ることもできない

かって、国策によって満州に追われ
敗戦によって集団自決を強いられ
幼子を棄てて逃げ帰ってきたふるさと
そして苦闘のすえに築いた暮らしを
あの日と同じように、一瞬にして
国策の破綻によって叩き壊された

しかもこれは痛みのない緩慢な死だが
あの日と同じ集団自決の強要ではないのか
七三一部隊の人体実験ではないのか
なかまよ 悲しんで泣いてはいられない
この4か月の間、見えない恐怖のなかで
ぼくらがこの眼で見たものは

それでも、儲けのために
原発は続けていくという恐怖の正体だ

よし、そうならば
ぼくらも孫子のために、腹をすえてかかる

かつての関東軍のように、情報を隠し
危ないところからは、さっさと逃げ帰って
何食わぬ顔で、安全と復興を語る奴らに
そう簡単に殺されてたまるか

なかまよ 死んでいったなかまよ

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PS

昨日、マリドラさんとあややがお見舞いに来てくれました。
3時頃登場し、夕食のお寿司と果物、恒例のあややお手製シフォンケーキの差し入れがありました。
9時半頃までおしゃべりに花を咲かせ、雨のあがった夜半に帰って行きました。
明日からマリドラさんはお義母さんと熱海旅行の後、Hさんの告別式に参列するとのことです。
京都で8人が死亡する暴走事故の翌日、大磯で早朝に酔っ払い運転によるひき逃げ事故が発生しました。その被害者が元同僚のHさんとは!黙とう。

11日にマリドラ宅でPPM(プラチナポエム)があり、PPNの間違いではありません。
しんごう先生が紹介してくれた農民詩「見えない恐怖のなかでぼくらは見た」を、みんなで朗読することになったそうです。
次回の5月30日のプラチナポエムには参加したいです!

2012-04-13

ドイツZDFテレビ「フクシマのうそ」 Ⅱ

<テレビ映像の日本語書き起こし>


我々は放射能から身を守り、警察から外人と見破られないよう防護服を着こんだ。
汚染され、破壊した原発が立っているのは立ち入り禁止区域だ。
そこに連れて行ってくれることになっている男性と落ち合った。
なにが本当にそこで起きているか、彼に見せてもらうためだ。
ナカ・ユキテル氏は原子力分野のエンジニア会社の社長で もう何十年間も原発サイトに出向いて働いてきた。
フクシマでも、だ。
私たちは見破られず、無事チェックポイントを通過した。
作業員たちが作業を終え、原発から戻ってきたところだった。
3月11日に起こったことは、これから日本が遭遇するかもしれぬことの前兆に過ぎないのかもしれないことが
次第にわかってきた。
そしてその危険を理解するには、過去を理解することが必要だ。


(タイトル) フクシマの嘘
(監督) ヨハネス・ハノ
私たちは立ち入り禁止区域の中、事故の起きた原発から約7キロ離れたところにいる。
ナカ氏はここで生活をし、福島第一とフクシマノ第二の間を股にかけて仕事をしてきた。
ナカ氏と彼の部下は、何年も前から原発の安全性における重大な欠陥について注意を喚起してきた。
しかし、誰も耳を貸そうとしなかった。

(ナカ氏)
私の話を聞いてくれた人はほんのわずかな有識者だけで その人たちの言うことなど誰も本気にしません。
日本ではその影響力の強いグループを呼ぶ名前があります。
原子力ムラ、というのです。
彼らの哲学は、経済性優先です。
この原子力ムラは東電、政府、そして大学の学者たちでできています。
彼らが重要な決定をすべて下すのです。



私たちは東京で菅直人と独占インタビューした。
彼は事故当時首相で、第二次世界大戦以来 初の危機に遭遇した日本をリードしなければならなかった。
彼は唖然とするような内容を次々に語った、たとえば
首相の彼にさえ事実を知らせなかったネットワークが存在することを。
マスメディアでは彼に対する嘘がばらまかれ 彼は辞任に追い込まれた。
彼が原子力ムラに対抗しようとしたからである。

(菅前首相)
最大の問題点は、3月11日が起こるずっと前にしておかなければいけないものがあったのに、

何もしなかったことです。
原発事故を起こした引き金は津波だったかもしれないが 

当然しておくべき対策をしなかったことが問題なのです。
この過失は責任者にあります。
つまり、必要であったことをしなかった、という責任です。



では原発事故の原因は地震と津波ではなかったのか?
原子力ムラの足跡を辿っていくと、嘘、仲間意識と犯罪的エネルギーの網の目に遭遇する。
調査は2つの大陸にまたがった。
まずカリフォルニアに飛んだ。
目的地はサン・フランシスコである。
私たちはある男性と話を聞く約束をしていた。
彼は長年原子炉のメンテナンスの仕事でフクシマにも何度も来ており
かなり深刻なミスや事故を東電が隠蔽するのに遭遇した。
フクシマの第1号原子炉は70年代初めにアメリカのジェネラルエレクトリック社が建設し
それ以来アメリカのエンジニアが点検を行ってきた。
そしてフクシマでは何度も問題があった。

(ハーノ記者)
東電は、点検後、なにをあなたに求めたのですか?

(スガオカ氏)
亀裂を発見した後、彼らが私に言いたかったことは簡単です。
つまり、黙れ、ですよ。
何も話すな、黙ってろ、というわけです。



問題があるなど許されない
日本の原発に問題など想定されていない
アメリカのエンジニア、ケイ・スガオカ氏も それを変えようとすることは許されなかった。

(スガオカ氏)
1989年のことです、蒸気乾燥機でビデオ点検をしていて
そこで今まで見たこともないほど大きい亀裂を発見しました。



スガオカ氏と同僚が発見したのは、それだけではない。

(スガオカ氏)
原子炉を点検している同僚の目がみるみる大きくなったと思うと彼がこう言いました
蒸気乾燥機の向きが反対に取り付けられているぞ、と。
もともとこの原発の中心部材には重大な欠陥があったのだ。
スガオカ氏は点検の主任だったので 正しく点検を行い処理をする責任があったのだが
彼の報告は、東電の気に入らなかった。
私たちは点検で亀裂を発見しましたが、東電は私たちにビデオでその部分を消すよう注文しました。
報告書も書くな、と言うのです。
私はサインしかさせてもらえませんでした。
私が報告書を書けば、180度反対に付けられている蒸気乾燥機のことも報告するに決まっていると

知っていたからです。

(ハーノ記者)
では、嘘の文書を書くよう求めたわけですか?

(スガオカ氏)
そうです、彼らは我々に文書の改ざんを要求しました。



スガオカ氏は仕事を失うのを怖れて、10年間黙秘した。
GE社に解雇されて初めて彼は沈黙を破り日本の担当官庁に告発した。
ところが不思議なことに、告発後何年間もなにも起こらなかった。
日本の原発監督官庁はそれをもみ消そうとしたのだ。
2001年になってやっと、スガオカ氏は「同士」を見つけた。
それも日本のフクシマで、である。
18年間福島県知事を務めた佐藤栄佐久氏は当時の日本の与党、保守的な自民党所属だ。
佐藤氏は古典的政治家で皇太子夫妻の旅に随行したこともある。
始めは彼も、原発は住民になんの危険ももたらさないと確信していた。
それから、その信頼をどんどん失っていった。

(佐藤前知事)
福島県の原発で働く情報提供者から約20通ファックスが届きその中にはスガオカ氏の告発も入っていました。
経産省は、その内部告発の内容を確かめずにこれら密告者の名を東電に明かしました。
それからわかったことは、私も初めは信じられませんでした。
東電は、報告書を改ざんしていたというのです。
それで私は新聞に記事を書きました。
そんなことをしていると、この先必ず大事故が起きる、と。



それでやっと官僚たちもなにもしないわけにはいかなくなり17基の原発が一時停止に追い込まれた。
調査委員会は、東電が何十年も前から重大な事故を隠蔽し安全点検報告でデータを改ざんしてきたことを
明らかにした。
それどころか、フクシマでは30年も臨界事故を隠してきたという。
社長・幹部は辞任に追い込まれ、社員は懲戒を受けたが皆新しいポストをもらい、誰も起訴されなかった。
一番の責任者であった勝俣恒久氏は代表取締役に任命された。
彼らは佐藤氏に報告書の改ざんに対し謝罪したが佐藤氏は安心できず、
原発がどんどん建設されることを懸念した。
そこで佐藤氏は日本の原発政策という「暗黙のルール」に違反してしまった。
2004年に復讐が始まった。

(佐藤前知事)
12月に不正な土地取引の疑いがあるという記事が新聞に載りました。
この記事を書いたのは本来は原発政策担当の記者でした。
この疑惑は、完全にでっち上げでした。
弟が逮捕され首相官邸担当の検察官が一時的に福島に送られて検事を務めていた。
彼の名はノリモトという名で遅かれ早かれ、お前の兄の知事を抹殺してやる、と弟に言ったそうです。
事態は更に進み、県庁で働く200人の職員に圧力がかかり始めました。
少し私の悪口を言うだけでいいから、と。
中には2、3人、圧力に耐え切れずに自殺をする者さえ出ました。
私の下で働いていたある部長は、いまだ意識不明のままです。



それで、同僚や友人を守るため、佐藤氏は辞任した。
裁判で彼の無罪は確定されるがしかし沈黙を破ろうとした「邪魔者」はこうして消された。
これが、日本の社会を牛耳る大きなグループの復讐だった。
そしてこれこそ、日本で原子力ムラと呼ばれるグループである。

(菅前首相)
ここ10~20年の間、ことに原子力の危険を訴える人間に対するあらゆる形での圧力が非常に増えています。
大学の研究者が原発には危険が伴うなどとでも言おうものなら出世のチャンスは絶対に回ってきません。
政治家はあらゆる援助を電力会社などから受けています。
しかし、彼らが原発の危険性などを問題にすれば、そうした援助はすぐに受けられなくなります。
反対に、原発を推進すれば、多額の献金が入り込みます。
それは文化に関しても同じでスポーツやマスコミも含みます。
このように網の目が細かく張りめぐらされて原発に対する批判がまったくなされない環境が

作り上げられてしまいました。
ですから原子力ムラというのは決して小さい領域ではなくて国全体にはびこる問題なのです。
誰もが、この原子力ムラに閉じ込められているのです。



東電から献金を受け取っている100人以上の議員に菅首相は立ち向かった。
その中には前の首相もいる。やはり彼と同じ政党所属だ。
ネットワークは思う以上に大きい。
多くの官僚は定年退職すると、電事業関連の会社に再就職する。
1962年以来東電の副社長のポストは原発の監査を行うエネルギー庁のトップ官僚の指定席だ。
これを日本では天下り、と呼んでいる。
しかし反対の例もある。
東電副社長だった加納時男氏は当時与党だった自民党に入党し12年間、日本のエネルギー政策を担当し
それからまた東電に戻った。
このネットワークについて衆議院議員の河野太郎氏と話した。
河野氏の家族は代々政治家で彼の父も外相を務めた。
彼は、第二次世界大戦後日本を約60年間に渡り支配した自民党に所属している。
原発をあれだけ政策として推進してきたのは自民党である。

(河野議員)
誰も、日本で原発事故など起こるはずがない、と言い続けてきました。
だから、万が一のことがあったらどうすべきか、という準備も一切してこなかったのです。
それだけでなく、原発を立地する地方の行政にも危険に対する情報をなにひとつ与えてこなかった。
いつでも、お前たちはなにも心配しなくていい万が一のことなど起こるはずがないのだから、と。
彼らはずっとこの幻想をばらまき事実を歪曲してきたそして今やっと、すべて嘘だったことを認めざるを

得なくなったのです。


この雰囲気が2011年3月11日に壊れた。
日本がこれまでに遭遇したことのない大事故が起きてからだ。
14時46分に日本をこれまで最大規模の地震が襲った。
マグニチュード9だった。
しかし、地震は太平洋沖で始まったその後のホラーの引き金に過ぎなかった。
時速数百キロという激しい波が津波となって日本の東部沿岸を襲った。
津波は場所によっては30メートルの高さがあり町や村をのみこみ消滅させてしまった。
約2万人の人がこの津波で命を失った。
そして福島第一にも津波が押し寄せた。
ここの防波堤は6メートルしかなかった。
津波の警告を本気にせず処置を取らなかった東電や原発を監査する当局は
警告を無視しただけでなく、立地場所すら変更していたのだ。

(菅前首相)
もともとは、原発は35mの高さに建てられる予定でした。
しかし標高10mの位置で掘削整地しそこに原発を建設したのです、

低いところの方が冷却に必要な海水をくみ上げやすいという理由で。
東電がはっきり、この方が経済的に効率が高いと書いています。



巨大な津波が、地震で損傷を受けた福島第一を完全ノックアウトした。
まず電源が切れ、それから非常用発電機が津波で流されてしまった。
あまりに低い場所に置いてあったからである。
電気がなければ原子炉冷却はできない。

(菅前首相)
法律ではどの原発もオフサイトサンターを用意することが義務付けられています。
福島第一ではその電源センターが原発から5キロ離れたところにあります。
これは津波の後、1分と機能しなかった。
それは職員が地震があったために、そこにすぐたどりつけなかったからです。
それで電源は失われたままでした。
こうして送電に必要な器具はすべて作動しませんでした。
つまりオフサイトサンターは、本当の非常時になんの機能も果たさなかったということです。
法律では原発事故と地震が同時に起こるということすら想定していなかったのです。



菅直人はこの時、原発で起こりつつある非常事態について、ほとんど情報を得ていなかった。
首相である彼は、テレビの報道で初めて、福島第一で爆発があったことを知ることになる。

(菅前首相)
東電からは、その事故の報道があって1時間以上経っても

なにが原因でどういう爆発があったのかという説明が一切なかった。
あの状況では確かに詳しく究明することは難しかったのかもしれないが
それでも東電は状況を判断し、それを説明しなければいけなかったはずです。
しかし、それを彼らは充分に努力しませんでした。



2011年3月15日、災害から4日経ってもまだ 東電と保安院は事故の危険を過小評価し続けていた。
しかし東電は菅首相に内密で会い、職員を福島第一から撤退させてもいいか打診した。
今撤退させなければ、全員死ぬことになる、というのだ。

(菅前首相)
それで私はまず東電の社長に来てもらい撤退はぜったい認められない、と伝えた。
誰もいなくなればメルトダウンが起きそうすれば莫大な量の放射能が大気に出ることになってしまう。
そうなってしまえば広大な土地が住めない状態になってしまいます。



菅は初めから東電を信用できず自分の目で確かめるためヘリコプターで視察した。
しかし首相である彼にも当時伝えられていなかったことは
フクシマの3つの原子炉ですでにメルトダウンが起きていたということだ。
それも災害の起きた3月11日の夜にすでに。

(菅前首相)
東電の報告にも、東電を監査していた保安院の報告にも燃料棒が損傷しているとか
メルトダウンに至ったなどということは一言も書かれていなかった。
3月15日には、そのような状況にはまだ至っていないという報告が私に上がっていました。



事故からほぼ1年が経った東京。
世界中であらゆる専門家が予想していたメルトダウンの事実を
東電が認めるまでなぜ2ヶ月も要したのか、私たちは聞こうと思った。
自然災害が起きてからすぐにこの原発の大事故は起きていたのである。

(ハーノ記者)
「原子炉1号機、2号機そして3号機でメルトダウンになったことを、東電はいつ知ったのですか」

(東電・松本氏)
「私どもは目で見るわけにはいきませんが上がってきましたデータをもとに自体を推定し
燃料棒が溶けおそらく圧力容器の底に溜まっているだろうという認識に達したのは5月の初めでした。」



膨大なデータに身を隠そうとする態度は今日も変わらない。
東電は、毎日行う記者会見でこれらのデータを見せながら、事態はコントロール下にあると言い続けている。
しかしこれらのデータの中には、本当に責任者たちは
なにをしているのかわかっているか、疑いたくなるような情報がある。
たとえばスポークスマンはついでのことのように放射能で汚染された冷却水が「消えてしまった」と説明した。 
理由は、原発施設ではびこる雑草でホースが穴だらけになっているという。

(ハーノ記者)
「放射能で汚染された水を運ぶホースが雑草で穴が開くような材料でできているというのですか?」

(東電・松本氏)
「草地に配管するのは私たちも初めてのことですが

穴があくなどのことについては知見が不十分だったと思っています。」


しかし原発の廃墟をさらに危険にしているのは雑草だけではない。
私たちは富岡町に向かった。
ゴーストタウンだ。
原発廃墟の福島第一から7キロのところにある。
私たちはナカ氏に便乗した。
彼のような住民は、個人的なものをとりに行くためだけに短時間だけ帰ることが許されている。
彼は、地震に見舞われた状態のまま放り出された会社を見せてくれた。
今では放射能のため、ここに暮らすことはできない。

(ナカ氏)
この木造の建物はとても快適でした。
とても静かで、夏は涼しく、冬は暖かかった。
私たちは皆ここで幸せに暮らしていました。

80人の原発専門のエンジニアが彼のもとで働いており
原発事故後も、事故をできるだけ早く収束しようと努力している。
ナカ氏と彼の社員は、原発廃墟で今本当になにが起きているのか知っている。

(ナカ氏)
私たちの最大の不安は、近い将来、廃墟の原発で働いてくれる専門家がいなくなってしまうことです。
あそこで働く者は誰でも、大量の放射能を浴びています。
どこから充分な数の専門家を集めればいいか、わかりません。



しかし、まだ被爆していない原発の専門家を集めなければ事故を収束するのは不可能だ。
例えこれから40年間、充分な専門家を集められたとしても
日本も世界も変えてしまうことになるかもしれない一つの問題が残る

(ハーノ記者)
今原発は安全なのですか?

(ナカ氏)
そう東電と政府は言っていますが働いている職員はそんなことは思っていません。とても危険な状態です。
私が一番心配しているのは4号機です。
この建物は地震でかなり損傷しているだけでなく

この4階にある使用済み燃料プールには約1300の使用済み燃料が冷却されています。
その上の階には新しい燃料棒が保管されていて非常に重い機械類が置いてあります。
なにもかもとても重いのです。もう一度大地震が来れば建物は崩壊してしまうはずです。
そういうことになれば、また新たな臨界が起こるでしょう。



このような臨界が青空の下で起これば日本にとって致命的なものとなるだろう。
放射能はすぐに致死量に達し、原発サイトで働くことは不可能となる。
そうすれば高い確率で第1、2、3、 5、 6号機もすべてが抑制できなくなり
まさにこの世の終わりとなってしまうだろう。
東京で著名な地震学者の島村英紀氏に会った。
2月に東大地震研が地震予知を発表したがそれによれば75%の確率で4年以内に
首都を直下型地震が襲うと予測されている。

(ハーノ記者)
このような地震があった場合に原発が壊滅して確率はどのくらいだとお考えですか?

(島村教授)
-はい、とても確率は高いです。

(ハーノ記者) 
-どうしてですか?

(島村教授)
計測している地震揺れ速度が、これまでの予測よりずっと速まってきています。
私たちはここ数年千以上の特別測定器を配置して調査してきましたが
それで想像以上に地震波が強まり、速度も増していることがわかったのです。



これは日本の建築物にとって大変な意味を持つだけでなく
原発にとっても重大な問題となることを島村氏は説明する。

(島村教授)
これが原発の設計計算です。
将来加速度300~450ガルの地震が来ることを想定しています。
そして高確率で発生しないだろう地震として600ガルまでを想定していますが
この大きさに耐えられる設計は原子炉の格納容器だけで
原発のほかの構造はそれだけの耐震設計がされていないのです。
しかし私たちの調査では、最近の地震の加速度がなんと4000ガルまで達したことがわかっています。
想定されている値よりずっと高いのです。

(ハーノ記者) 
電気会社は、それを知って増強をしなかったのですか?

(島村教授)
今のところ何もしていません、不十分であることは確かです。
これだけの地震に耐えられるだけの設計をしようなどというのはほとんど不可能でしょう。



ここは原発廃墟から60キロ離れた場所だ。
フクシマ災害対策本部では東電、保安院、福島県庁が共同で
原発の地獄の炎を鎮火するための闘いの調整をはかっている。
私たちは東電の災害対策部責任者にインタビューした。
ことに彼に訊きたいのはどうやって今後
これだけ損傷している原発を大地震から守るつもりなのか、ということだ。
ことに、危ぶまれている4号機について訊いた。

(東電・白井氏)
4号機の使用済み燃料プールには夥しい量の使用済み燃料が入っています。
これをすべて安全に保つためには、燃料プールの増強が必要です
燃料プールのある階の真下に、新しい梁をつけました。

(ハーノ記者) 
原発はほとんど破壊したといってもいいわけですが
原発が健在だった1年前ですら大地震に耐えられなかった構造で

どうやって次の地震に備えるつもりなのでしょうか?

(東電・白井氏)
我々は耐震調査を4号機に限らず全体で行いました。
その結果、問題ないという判断が出ています。

(ハーノ記者) 
でも地震学者たちは4000ガルまでの地震加速度が測定されていて
これだけの地震に耐えられるだけの原発構造はないと言っています。
半壊状態のフクシマの原発の真下でそのような地震が来ても全壊することはないと、なぜ確信がもてるのですか?

(東電・白井氏)
その4000ガルという計算は別の調査ではないでしょうか
それに関しては、私は何とも言いかねます。

(ハーノ記者) 
原発を日本で稼動させるだけの心構えが、東電にできているとお考えですか?

(東電・白井氏)
それは答えるのが難しいですね。

(ナカ氏)
これがやってきたことの結果です。
この結果を人類はちゃんと知るべきだと思います。
一緒に未来の政策をつくっていくことができるように

2012-04-12

ドイツZDFテレビ「フクシマのうそ」 Ⅰ

昨年暮れに立ち上げられた「市民と科学者の内部被曝問題研究会」に加入した知人からの情報で、ドイツZDFテレビのドキュメンタリー 「フクシマのうそ」の動画(日本語字幕付き)と、その書き起こしがあることを知りました。
日本語の書き起こしの後には、投稿者からの以下のコメントがありましたので、私のブログにも掲載します。

あなたの動画チャンネルに、このビデオを掲載してください。
あなたのブログに、書き起こし文を掲載してください、
日本中の人が目にするまで、拡散してください。



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2012-04-10

松葉杖でギャランティ訪問

みずほ台のギャランティ事務所
昨日は、協同研の運営委員メンバーに車を出してもらい、㈱ギャランティを訪問しました。
協同研の新しいブログの更新状況と、ブログや会報についてのアンケート結果を私から報告し、maeさんから今後の勉強会のイメージと関わり方の紹介がありました。

運営委員会メンバーは、うむむ!と考え込む場面もありましたが、5月8日のmaeさんの講演会に向けて準備をはじめようと事務所に戻り運営委員会を開催しました。
総会議案の検討の中で、今後は研究会を立ち上げるのではなく、運営委員会を中心にブログの更新、交流を進め、maeさん講師の学習会は企画事業として、会員以外にも公募する形をとる方向性を決めました。

PS
従妹の葬儀以来突然、大泉の叔母から電話が入りました。
心労からか帯状疱疹で寝込んでいたとのこと。教会に通いながら1人暮らしを続けているそうです。
従妹の残したアップルコンピューターが開けられず、メールも読めないと嘆いていました。
私が先月送ったメールもわからない状態だったようです。
携帯は相手アドレスの登録の方法がわからないから返信しかできないと笑っていました。

2012-04-08

ベランダからの花見


私のできる唯一のお花見はベランダから見える我が家?の桜樹だけです。
昨年は和室から眺めましたが、今年はギブスで座ることが出来ないので、花冷えのするベランダのテーブルで蟹を食べました。
昼過ぎ次男が愛犬メーテルを連れてきて、夕食まで食べたり飲んだりして帰りましたが、帰り際に玄関先でワンコにオシッコをされてしまいました。
老犬の域に達する愛犬は、朝夕のお散歩時だけでは間に合わなくなってきているのでしょうか?
それとも少々緊張していたのでしょうか?。
2日ばかり暖かい日が続いたので蕾が急に膨らみ、お花見に耐えられるまでに咲いてくれています。
時折り吹く強い風に桜の枝がかなり揺れていますが、まだ咲き始めなので散ることはありません。
来週は雨の予報なので花は終わってしまうかもしれません。
短い見頃ですが、それがまたはかなく美しい。日本人の愛する桜花。

2012-04-05

夜桜お七

オジサン : 4日、駒込六義園です。お楽しみください。

オバサン : 凄い、身震いするような夜桜ですね。
                前回のイルミネーションといい、夜桜といい、夜カメラを持って彷徨っているおじさんの
                姿を想像すると、ちょっとこわいものがありますよ。
                ところで、私は先月末に足首を骨折して、ギブスです。
                お花見はかなわず、マンションの窓から眺める桜の木が唯一の花見です。トホホ

オジサン : 何で足首を折ったの?年取ってからの骨折はやばいよ。完全に治して下さい。
               それと運動不足になっているから治った後のウオーキングが重要だよ。
               夜の徘徊ジジイは狼ジジイで、夜桜とイルミネーションに吼えるのであります。
               でも今回はばっちりの写真が撮れました。