最近、おもうこと

50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。

定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。

大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。

もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、

2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。

里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。

そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。

2013-09-24

政府は今こそ日本軍「慰安婦」問題の解決を ~ナヌムの家のハルモニを迎えての院内集会

参院議員会館講堂で行われたナヌムの家のハルモニを迎えての院内集会に参加しました。
永田町の駅を降りると、「在日は出て行け!死ね!チーン!」というヘイトスピーチが聞こえてきて日章旗と日ノ丸をたなびかせた集団が大音響を立てていました。
参院議員会館内は手荷物検査、入室申請書など集会を妨害しようとする人を入室させないための物々しい警備でした。
主催は「ナヌムの家」のハルモニを迎える会、「慰安婦」問題とジェンダー平等ゼミナール、日本婦人団体連合会、新日本婦人の会、日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会。
関東学院大学教授・林博史さん、アクティブミュージアム「女たちの戦争と平和資料館(Wam)」事務局長・渡辺美奈さんのお話の後、韓国の「ナヌムの家」から来日したばかりのハルモニ3人と「ナヌムの家」の館長さんが登場しました。
1人づつ通訳が付いて話し始めたハルモニ達は86歳、88歳、90歳という高齢、「死ぬ前に歴史認識を改め謝罪がほしい!」訴えられました。
「なぜこの場に安倍首相が居ないのか?直接訴えたかった」と残念がるハルモニ。
興奮して通訳を忘れて話し続けてしまう一幕もありましたが、最後に再度立ちあがってパク・オクソンさんが言われた「今は昔と違う、大声をあげて申し訳なかった。今のみなさんの力を貸してください」という言葉に心がうたれました。

3人のハルモニとナヌムの家の館長

パク・オクソンさん(左)
イ・オクソンさん(右)


カン・イルチュルさん(左)と館長(右)

日本の戦争責任と日本軍「慰安婦」問題
林 博史さん
国際社会の動きと日本が問われていること
渡辺美奈さん



紙智子参院議員




仁比聡平参院議員

吉良よし子参院議員
辰巳孝太郎参院議員


2013-09-23

墓参のはしご

今日は朝から高速で嵐山の三男のお墓、飯能の母のお墓をはしごでお参りしました。
孫2人も競い合ってお墓の掃除を手伝ってくれました。
連休最後の日の今日は夕方から大渋滞とのニュース、朝早く出発した甲斐があってスムーズに帰って
これました。長男の嫁さんの作ったおはぎを昼食代わりに車中で食べて、昼食時間を取らなかったことも
幸いしたようです。でも疲れました。

嵐山のリキのお墓



飯能の母のお墓


2013-09-16

写真のお便り その3

暑中見舞いに続いて、素敵な写真のお便りがまた届きました。
長崎のグラバー亭近くのヨットハーバー

別府の杉のいホテルからの景色

2013-09-15

ランチ付き織りカフェ


台風の前日、関東地方は豪雨、越谷には竜巻が起きるなどという天気の中、初挑戦のトトスクのランチ付き織りカフェが開かれました。
私は電車遅れの影響で、昼食時間を少々遅刻して代々木駅に降り立ち、鳩森小学校の前で迷われていた参加者を案内して教室に到着。
考えていた以上のランチバスケットで、かぼちゃのスープとデザート付きのなかなか美味しい食事でした。
担当でない3人のスタッフは、織りカフェ中にさリコ大会のプレゼント用の赤い靴の縫製に余念がありませんでした。お陰で33個の靴が完成しました。

2013-09-10

協同研 9月定例会 「民主主義の源流を求めて~戦争と青い目の人形」

本日はかねてから誘っていたピンヤさんが例会に参加してくれました。
そんな日に限っていつもより参加メンバーが少ないのは残念なかぎり。
いいだしっぺ講師・山口勇さんは新座市の教職員で、教育文化研究所に関わる中で、「青い目の人形」と出会ったと自己紹介されました。
ちょうど私は機関紙協会の「ねっとわーく9月号」に掲載された山口さんの「横瀬小に今も残るカロリン、青い目の人形が見た歴史という」という記事を読んだばかりでした。

第1次世界大戦後の恐慌・経済不況の中、アメリカでは日本人移民を締めだす動きがあり、日米関係は緊張していた頃、宣教師ギューリックは人形を通じて日米の親睦をはかろうと全米に呼びかけるとともに、実業家渋沢栄一に協力を求め、賛同した渋沢栄一は秩父宮殿下を親善大使に立て、外務省・文化省との打合せのもとで、受入れ準備を始めました。
彼らは購入した1万2739体の人形に名前を付け、パスポートを持たせて日本へ送ったのです。
埼玉県内に配布された人形は178体、県は答礼として「秩父嶺玉子」と名付けた市松人形を贈り、人形とのお別れ会は昭和2年10月15日、埼玉会館で1300人の児童が参加して行われたそうです。
昭和16年に始まった太平洋戦争は、人形の立場を一変させ、鬼畜米英思想の元で危機に立たされます。
昭和18年2月19日の毎日新聞には、「叩き壊せ青い目の人形」「青い目をした人形、憎い敵だ許さんぞ」という記事が掲載され、文部省国民教育局久尾総務課長の「速やかに処置を」との談話が載りました。
各地の人形は焼かれたり、竹やりで突かれたりして、姿を消していきましたが、その中でも人形を守ろうとした少数の人がいて、現在県内には12体の人形が残されているそうです。
横瀬と言えば、協同研の「野の文化in横瀬」で20年間米づくりを継続してきた所です。
横瀬小学校のカロリン人形に是非お目にかかりたいものです。












2013-09-08

さをりの大先輩の作品

100歳を迎えられたみさを先生と近しい大先輩の娘さんからの連絡で、お宅に伺い織り機と糸を東北の被災地への支援品として預かって来ました。
素晴らしい作品は東京、所沢、大宮で作品展を開催します。
懐かしい写真を拝見すると、皆さんお若い!