最近、おもうこと

50歳から始めた”さをり織” 「自分自身を織り上げる」という創始者・城みさをさんのことばに惹かれました。

定年後の第二の人生、2016年7月に「姉妹塾 SAORIKO-UKO」 を和光市で開所しました。

大好きな”さをり織”を、多くの人に伝えて一緒に楽しみたいと思っています。

もうひとつのチャレンジは、10年間続けているネパールの貧しい家庭の子ども達の就学支援、この活動をもっと広げるために、

2017年4月に「ネパール子ども基金・里親の会」のブログを立上げたことです。

里子が自分自身の将来を切り開くために、私たちのボランティア活動が少しでもお手伝いができればと考えています。

そしてこの「SAORIKO日記」を再開しました。

2017-08-15

終戦記念日に思う

 私が父方の祖母と暮らしたのは、小学校高学年の2年間でした。祖母は私が学校から帰ると戦争の話を度々してくれました。昭和天皇と同じ日に生まれたことがご自慢の祖母は、筋金入りの軍国の母でした。3人の息子を軍人に育てることが彼女の生きがいでした。次男の父と三男の叔父は海軍兵学校に進んだものの、長男の伯父だけが軍人を嫌い、大学で演劇を学んでいました。祖母は「好きなことをするなら、まず御国のために戦って来てからにしなさい!」と言い渡し、招集令状が届く前に「いの一番」で志願させたそうです。伯父はフィリピンで戦死しました。兵站も確保されない戦線で、戦死者の多くは餓死だったと言われています。

 伯父が残したのは爪と一通の手紙でした。祖母が大切にしていた手紙には「泣くな 嘆くな 必ず帰る 桐の小箱に錦着て 会いに来てくれ九段坂」という歌が書かれていました。これは「陸・海軍礼式歌」であることを後になって知りました。歌の最後には、腰の曲がった祖母が杖をついて靖国神社にお参りする姿が描かれていました。死ぬ覚悟で出征した伯父の思いが込められた手紙を、祖母はどんな思いで孫の私に見せたのでしょうか。

 一方、父は海軍で終戦を迎えました。3人乗りの潜水艇で敵の戦艦に体当たりする予定でしたが、故障で軍港に引き返した時に広島に原爆が落とされ、再び出航することはありませんでした。祖母は敗戦の報を聞いた時、父は戦死せずとも生きては帰っては来るまいと覚悟したそうです。

私は祖母に教えられた歌の中で「戦友」という軍歌が気に入り、「ここは御国を何百里」と、長い歌詞を覚え祖母と一緒に歌っていました。「ソ連が不可侵条約を破って攻めてこなかったら、この戦争で負けなかったら、お前は軍人の娘として何不自由のない暮らしが出来たのに!」と言うのか祖母の口癖でした。

 その頃の祖母と同じ年齢になった私は、「絶対に父や伯父のような青年を生んではいけない」「息子たちに、孫たちに同じ道を歩ませてはいけない」と強い想いで迎える8月15日です。今年も千葉市の「平和公園墓地」に眠る祖母と伯父と父のお墓参りに行ってきました。終戦を海軍兵学校で迎えた三男の叔父はまだ健在で、お墓を守っています。


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